「猫と、とうさん」

先日観た映画。某系列の映画館のタダ券を持っていて、その期限が迫っていたので、仕事終わりの丁度良い時間の中で興味ある映画を、という消去法的に選んだ作品。

などと言うと失礼だが、猫がとてもかわいかったので良かったです。

https://catdaddiesjp.com

「CAT DADDIES」の原題にこの邦訳は、まあ、わからんではない。「とうさん」というのは「猫から見ての、猫の飼い主である男性」のニュアンスだろう。「おとうさん」と言う方が自然かもしれないが、それだと「父親」の意味合いが強くなりすぎる。登場する男性は当然ながら猫の実の父親ではないし、人間の父親であるとも限らない。かといって「おっさん」では身も蓋もないというか、「おっさん映画」という印象が前面に出てしまう。

というところで落ち着いたのが「猫と、とうさん」という、むしろ若干不自然な日本語を置いておくことで意味を曖昧にし、「猫」だけを漢字にして視線を集め猫映画感を出した邦題か。

などとぼんやり考えて観た印象は、おっさん映画であった。最初から最後まで猫はかわいいが、そこそこおっさん比が高いので、おっさん苦手な人にはあまりおすすめしない。猫はかわいい。

まあ、特にひどいおっさんが出てくるわけではない。中には何言ってんだコイツみたいなおっさんもいるが、ガチ野良猫保護活動家の尊敬すべきおっさんもいる。いろんなおっさんがそれぞれの事情を抱えながらそれぞれに猫をかわいがっているだけの映画。そして、どのおっさんのエピソードにおいても「すべての猫は安全な屋内で幸せに暮らすべき」という信念だけは映画全体を通じて感じるのが、この作品が不穏な雰囲気にならない理由だろう。

猫好きが傷つかないようには作られているが、おっさん苦手な人はどうしようもない。だって半分はおっさんの自分語りである。これ、アメリカには「成人男性が猫を可愛がる」ことを恥とする文化がある?らしく?だからおっさんが猫を可愛がるとき、「なぜ自分は猫を飼い猫を愛するのか」について説明が必要になるのだ。それが映画になりうる程度には。

まじで?と思いつつ、何か身に覚えあるんだよなあーとモヤモヤしてたのだが、しばらくして思い出した。日本人男性におけるフェミニズムである。男性がフェミニストを自称するとき、何らかの自分語りが必要になる、という話が、西口想さんの『なぜオフィスでラブなのか』という本のあとがきにある。まさにこれ。5年くらい前の話なので、世の中も多少は変わっているかもしれないが。

それでも、「自分はフェミニストではない」と言うことが即ち差別主義者宣言であることが、日本よりはアメリカの方が浸透しているだろう。そういう社会であれば、フェミニストを自称することに説明は要らない。それと同じように、日本ではおっさんが猫を猫かわいがりすることに説明はいらない。おっさんが猫について自分語りをはじめたら、それはただのウザい自分語りである。

という、文化的な背景のギャップに戸惑う映画でした。もちろん、この映画に出てる人だけでアメリカ人男性を語ることはできない。ただ、かなり意識的に「いろんなおっさん」を登場させてると思われ、猫を通して社会の変化を映し出そうという意図は読み取れた。

それにしても猫がずっとかわいいのである。いちばん感じるのはカメラマンの猫愛かもしれない。